大学入る前、ずっとダラスから帰ってきて生まれ育った京都のマンションの高層階に住んでいたのだが、ちっちゃく狭かった。父が往診医ということもあり、当日流行りのポケットベルを胸に入れての、夜の入眠。帰ってくるのも夜中の2:00だった。ずっと研究室で研究していたので。
私は、大学入試を控えて、京都に勉強するところから帰ってきて夜夕食を食べてから8:00には入眠、夜中1:00には起きて、朝の5:00まで勉強、6:00入眠、8:00起床、9:00に登校を繰り返していたので、近所のおばさんには、絶対いいところに入ると思われていたらしい。目覚まし時計が狂って鳴り響いても止めるものがおらず、近所に鳴り響いて迷惑行為を行っていた日もあったが、翌年の阪神大震災の前触れとは誰も思っておらず、少しうるさいなぁと、お叱りを近所で受けるものの、大学入試を阪神大震災の被災者であるにも関わらず、突破したという結果論で、近所の人からは、絶対にどこかに入るものだと思っていた、おばちゃんやおじちゃん喜んじゃったと、それは受かったら平和な近所のやり取りで、大学に入ってからも、夜中に起きていたことが功を奏してか、朝5:00には家をすでに出て、8:01の京都駅発のはるかに乗り、9:00には大学の前の踏切を渡り終えていて、授業には間に合うという生活をほぼ毎日送っていた。
さて、私は、大阪の大きなハーレーを使ったバイク行進を阿倍野区で何度もみてきたので、F1好きにもなったし、そんなに暴走族のことは怖くなかったし、本田が儲かっているんじゃないかという経済論だけ頭の中にあって、京都でヤクザや暴走族が夜中クラクションを鳴らしながら爆走するという音にもちっとも違和感なく感じ取り、帰って、京都の風物詩として、生活の一環の中に、組み込まれ、今日も暴走族が歩いている、程度で通報など夢にも思わなかったのだが、弟の受験あたりから、音に敏感な弟が、爆走音がうるさいとかで、文句が出た。私はこの頃、たまたま、近所の子で、バイクを購入したという経歴を持つ子から、京都で走らせると、君の弟の文句が出て、怖い、いつ通報されるか分からないけど、直進の練習をしないと、自動車教習所で文句が出る、どこかにいい練習場はないか?という問いに、和歌山の粉河寺から、奈良の南法華寺まで、国道が一直線にあるんだけれども、そこで練習すれば?とか、生駒山にレーサー専用の道路があるとは、大学で、バイク通学していた大学院生がクラブ活動で言ってたなぁ、と教えてあげると、京都で爆音安眠妨害のやり玉に挙げられることなく、母親は心配そうな顔をするが、毎晩練習しに行ったその子は、レーサーになり、警察で白バイの練習で重宝され、なんか高卒で雇われたとかいう話を風の噂で聞いた。
さて、弟は、音のため、勉強がはかどらない、と、母に相談。父はバイク運転をしていたある若者が、首から脊髄にかけて大損傷した僧侶の息子とかいう子を病院に運び込み、手術を執行していたので、バイク乗りには猛反対。話にも乗らなかったくらいで、仕方がなく私がやったことは、近所の朝日新聞スタンドの印刷のおじさんに、受験生が勉強できない上に、京都大学生の司法試験の受験合格率が今ひとつ国の中で伸び悩んでいるという話の内容を持ち込んで、ヤクザと暴走族の無理な運転はやめましょうという記事を掲載してくれないかなぁ、というと、最初は料金取るよ、と、言われたのだが、スタンドのおじさんが、息子の司法試験の合格発表を見に行ったところ、落ちていたので、今回だけ特別と、無料で記事を掲載。息子の司法試験合格のために自腹を切ったのかとも思ったが、どこがどこで功を奏したのか、記事は取り上げられ、京都裁判所の人と、市役所の人と県庁の人が会議の題材として、案件を挙げたところ、大多数賛成とのことで、ヤクザと暴走族の爆走音は地震後一時期消えた。代わりに取られた措置が、法科大学院の各地での設置案で、みんな、バイクのマフラーを取って音だけ鳴らす手段で大きな音を立てて走るものの、摩擦で消耗する部品が多くなるため、煙が出るところのあたりから火花が飛んで、放火事件を起こす前に、法科大学院を打ち立てたのかなぁ?と、ダジャレしか話しせず、政治には顔出しするなかれの、家訓の家だったので、一回も弁護士になろうとかちっとも思わなかったのだが、理系の割にはやっていることが弁護士とそっくりとは言われていた。あまり関わってない分野で、文屋として、首を突っ込んで、手紙を書いて出すことだけはお茶の子さいさいで、ペンと紙さえあればこの世で生きていけるとも思っていたのもこの頃。
さて、何かしら京都に住んでいると、家が、3代続く医院の老舗なので、吉田山に祖父の新居があるから、京都は離れられないと父が言っていた割には、何故か退職した暁には地方で往診医をやりたいという祖父の後を継ぎたいという父の願いを母が、みんなで叶えてあげましょうとのことで、父を中心に第一に考える家では、私が途中で学業専念できなくても、兎に角父だけは、好きなようにさしてあげましょうとの思惑の元、岡山の津山の本家のおばちゃん達と同じ運命、女は男のやっていることに口を出さず、ただ黙々と厨房に立つだけを実践し、男が料理をやりたいと、駄々をこねても、厨房だけは明け渡さなかったので、徐々に流行っていた男の料理や、男の週末、家庭科で男に料理を習わすとか、男の看護師とか、話が下火になってきた。
足を震わせて、バビンスキ反応で、足踏みをし、悔しいとねだる同期、外国では女になりたいという草食系の男子、ジェンダーの問題とか、変なところで、変に世界が変わってきた頃、友達は家から出たら好きなことできるから、自分がやりたいと思う学問も自分の稼いだ金で好きなだけできるのに、どうして家を出ないの?とか、ワーキングガールに聞かれたりもしたが、母が、一種一級の身体障害者で、あるからを理由に、資格だけは取っておくか、と、いくつかのペーパー資格証明書だけは取ったものの、名ばかりの医療従事者に、なったりもして、実際世間で働いたこともないくせにと、同じ父には、医療従事者として、なじられるものの、お母さんとおばさんの介護と医療だけは充実しているなぁと、逆に不思議がられて、外で赤の他人を見ない単なる身内ホームドクターとして、給与なしでボランティアという形で仕事従事していたりして、政府の助成金発表とかあると、該当するかなと、ニヤニヤしながら、メールを開ければ、助成金当選おめでとうという偽メールが入っていたりして、開ければここにお金を振り込んでくださいという怪しいものだったとITに、振り回される毎日。灘区では、出る金のほうが得る収入より高いということで、扶養から外れたくもないしと、あえて仕事をしようという気にさせない、そんな不思議な灘区で、出費が収入より下回ってきたという仕事していた時より良い条件になったのか、QOLとエンゲル係数は、下がっていくものの、株価だけは上がるという株主優待難民みたいなこともやっていた。
灘区では、やはり、ヤクザと、暴走族の街だけあったが、一時期、護国神社に、ヤクザの本家の山口組系の組長の、愛人になりたい、と、しれっとバレンタインデーキスと、称して、絵馬に書いて提出したところ、山口組系の本家の暴力団の家では、組長の艶聞で、激しく本妻と、妾が争っており、どちらのキスで感染したのか、手口足病で、悩んでいると、神主の仕事も兼ねていた山口組系本家の組長が、言ってきて、病院に行くどころか、神頼みして毎日を過ごしているとか言うんで、西川義方大先生の本でも読めば?と、あしらったところ、治ったのか、翌年の年始年末のご挨拶で、組員を引き連れて、夜中の参拝を護国神社でしたという、記事が神戸新聞で載せられていたので、組員の数はこれだけか、と、頭数と顔だけ全員の覚えて、知らなくても良い世界を垣間見ていた。
六甲八幡神社では、お花の先生として、教授職をフランス政府から授与されたとき、たまたま、本当に全力出しきって疲れたと思い、境内に大量の先生からのお祝いのお花と一緒に座っていると、どこぞのお嬢さんか、と、これも、六甲八幡神社の半分で、領地争いを昔からやってきた代々ヤクザだと自称する組員だか、組長だか、その奥さんなのか、妹なのか、二人がそろそろとやってきて、話を初めて聞いたとかで、一緒にカタログを見たり、お花のお話などをしていたら、羨ましい、そっち系の、仕事がしたいと、おめでとうとご褒美の言葉をもらったあと、おじさんは二足のわらじをはいているので、屋根の修理に行くね、と言って、目の前を去っていかれたこともあった。
そう言えば、京都の、一乗寺で、朝永振一郎と、湯川秀樹が将棋を縁側でしていたところ、ゆかりちゃんという子と、組長というかけ板が、外れているんだけれども、番丁どれ?と聞いたのに、東京からお嫁に来たおばちゃんが、「いけません、番長だなんて。」と、誤解され咎められて、組長の板が、どこの家のものか分からなくなり、そっと掛けておいた家のものが、今年も俺、組長か、回覧版用意しなきゃ、と、二重に、仕事をひきうけるものの、大変な毎日を過ごさざるを得なかったという誤解が誤解を生む事件もそれとなくあったが、ほとんどダジャレだけでの勘違い事件で、警察が丸く収めたので、そんなに抗争とか無かったよね、と、近所で文句たれていたのは覚えている。大学時代、丁目ではなく、丁の堺市の住所になったのだが、ここかぁ、唯一全国の丁の街、と、感動した上に、漢字に触発されて、最初の買い物が豆腐だったのは記憶に残っている。
さて、ヤクザって何?というのも、外国から帰ってきてからの、大きな疑問であったのだが、薬剤師のおばちゃんはブラック・ジャックのファンで、障碍者で、リウマチを患っている姉の婿に、医師を兄と呼ぶことを容認したくらい、それだけ医療を自在に操るのを、好きの物の上手なれなのか、得意分野としていただけあったのか、産みの母が、女性初の、三淵嘉子と、育ての親である両親に言い聞かされ育ったという背景にバックグラウンドがあってか、平気にも、「一部、ヤクザとは、お金の出し惜しみをする医師や看護師、薬剤師の事を指すとか言っている人もいるけどな。」とか、ムッシュー(三淵嘉子)と、おんなじことを言っていたので、もし、和田家から受験するなら、医療分野は大変そうだなと、父の医師の家から出願するかとか、幼い子供らしからぬことを考えていたのだが、確かに大学はいるとき、祖母の家から出向いただけあって、医療関係の学科へは進むことは意図的にしなかったものの、中医学の学校に同時入学した時は、(当日、日本の大学と外国の大学の同時入学は可能であったという裏背景もあった)父の医学研究室の大学院の先生でのち、大会社の社長さんになったり、大学院の教授さんにになったりした、若い先生に、「お父さん、何でも買ってあげるとか言っているよ、おねだりしなさい、おねだりしなさい。」と、日本の医療関係の大学に、入ったわけでもないのに、すごく褒められた時期もあり、図にのって、当時30万円のアップルのPerformer5210を買ってもらったことは非常に嬉しかったのだが、大学では、入学祝いに、祖母から100万円貰ったという経済学部の同級生もいたので、後70万円、何買ってもらおうと、勝手に福沢諭吉先生の70枚の行く末を案じていた時もあった。
勉強が進むと、司法試験おすすめだよという、理学部の先生が鬼に金棒という言葉をモットーに教えてもらって、NHKドラマの案件の虎に翼のダイアグラムを、下書きと称して、残してきたのを、同級生が見つけて、ドラマのテレグラフに掲載してくれたのを、嬉しくも思ったが、同級生の演技力のほうが勝っていて、毎日見ている。当時、日本の歴史の研究みたいな一般教養で、学長によく似た講師陣が、教え子に、NHKに、入った子がいて、今度の大河ドラマの秀吉のディレクターをやっていて、黒塀のシーンが登用されたことを非常に嬉しそうに話すのを楽しみとしてきっかけに授業を受けていたのだが、卒業生や退学者は、芸能界に進む方も多く、なんか、インディーズって、すごいなと思った私も実は退学者であったりする。
教授職や中華人民共和国の大学の卒業証書や、法科大学院の卒業証書とか、持っているが、父の卒業証書に、勝てるものはなく、本人も地方医療従事者として、灘区に引っ越してきた際には、だいぶ昔に総長から頂いた卒業証書だけは、持ってきていたので、そんなに大切なものかなと、思ったが、私は、特に、どんぐりの背比べとか、出る杭は打たれるとか、あまり好きではなく、祖母は鼻にかけることを、上から目線で、ことわざでやっつけることを趣味としていたので、何か取っても達成感を感じたことはない。結構厳しかった。
障碍者で、国家公務員試験を通ったときは、東京大学生が、国家公務員試験を、辞退するということも、見てきたし、Year Bookを、勉強すれば、韓国で医療ストライキが、起こって、医師がインターン辞退するばかりか、看護師も54人以上退職するということも、目の当たりにした。
孟母三遷の、教えがあるとはよく聞いていたが、近所には墓場と墓石があり、神戸商工会議所もあって、お隣には神戸大学と、松陰女子大学という、学びやがある。三遷出来たのは、金が孟母にあったから、出来たのであって、引っ越しが続いたのも、伯母野山町から、友田町、篠原北町と、小さな界隈での、お話が、でっかくなっただけであろうと、スピーカーの役目ても果たしたのか?と、あまり尊重もせず、冷やかしていたのだが、論語をよむだに、新札が福沢諭吉から、渋沢栄一に、かわったり、デイトレをしたり、終活したり、大学院の試験勉強とか毎日続けていると、孟母三遷の教えに踊らされているだけなんじゃないかと、時々しんどくもなり、手を止めればますます乗り遅れるんじゃないかと、焦らされて、おちおちと眠れない。
山口組系の、暴力団の、本家の組員が4000人と、弱体化しているニュースに我が家ではこんな裏事情があったのだが、確かに足を洗う就職活動を応援する感慨深い施設とかで、元やくざでも働けるという灘区に変わりつつあるのだが、一時期、地元の人が怖がって隣の区に、引っ越していく上に少子化と、高齢化社会と、学校の、共学化も合わせて、時代に合わせないと、存続を許されないという結果、やくざがこの世から居なくなるという話へと変わっていったんだろう。2009年に引っ越してきたときの組員の数と比べて、激変している。近所の人で、俺は組長だ、俺の言うことを聞かないと、危うい目に合う、と、後ろにある学校の生徒を脅していた、知り合いでヤクザだと隠していた人たちが一時期猛威を振るっていて、事件も起こしていたのだが、最近、学生さんたちのほうがヤクザの実力を、上回っており、上のマンションから、公共の通学路を時々植物に水を上げながらみていると、学生に追われる高齢者のヤクザの姿などを見ているのに、時代は変わったなと、ヒエラルキーの頂点の交代を感じている日々を送っているのである。
斎藤知事の、話は大変そうである。井戸知事が甲東園で、知事の仕事は大変だからなろうとするなと、時々一軒家の屋根の上に登っては、写生をしたり、八木アンテナの具合を見たり、お転婆していたのを目撃されて、教育と称して一喝されていたころもあったが、お嬢様学校に行っているはずなのに、家帰ったら、鍵を親が渡すのを忘れているとかで、弟の勉強部屋の、窓の鍵が、外から開けやすく外れやすいと、制服も、そこそこ、パンツ丸出しに、外の屋根の登り、でんぐり返しで物理的に、成功して家の中に入れて、宅急便のおじさんにはんこを渡せたという時もあったが、やっぱり井戸知事さんは、近所に住んでいたのか、全部見ていた。
おそれ多くって、出馬の意図もなかったが。
今、京都のノートルダム小学校で社会のテストで習わされた百条委員会による大裁判を実際この目で初めて50歳なる手前で、テレビによる放送で見ているわけなのだが、折しも朝の連ドラでは虎に翼をやっていて、原爆裁判で、佐田寅子がどんな判決を下すのか、山場も折しも佳境である。
関係者の叔母に、義理の息子がNHK内定貰ったことは、知らずに、愛宕山関係者はいないと思い込んで、お誕生日おめでとうございますというメッセージをLINEに、いただき、返事に、ひっそりと49歳を迎えております、と、返信したところ、この、ひっそりとという言葉に反応したためか、逆に堂々とお誕生日を迎えてくださいと、願われたので、そろそろ織田信長のゲームでも任天堂スイッチで購入しようかという、意欲は久しぶりに湧いてきた。
今年はどんな年になるのであろうか?結婚願望なく、面接試験で、意思表示したため、医療大学は落ちるわ、少子化は加速度を上げて子供の数は減るわ、中華人民共和国の、医学部医学科に入学するために、50万円のアーチェリーの弓矢を譲ったわ、など、高いものを低い値段で売るとか、自分に損になることばかりしてきたわけなのだが、見返りに、譲ったはずの弓矢がオリンピアの手によって再利用され、インド人に使ってもらえてるわ、中華人民共和国の、医学部医学科のテキストがアジアで一番良いテキストの第三位を獲得するわ、うちの家のペットに赤ちゃんが生まれるわと、人間社会に貢献はしていないものの、テスタと同じ、正社員として採用されたことはないものの、デイトレだけで生活費を稼いで確定申告も不労収入で得ていると思うと、私って、新しいスタイルを醸し出して生み出しているんではないかと、気持ちだけは宝塚歌劇団の、スターになったような気もするのである。少子化の問題だけ残るが。
よく考えれば、流石、三淵嘉子の子供を養子として迎え入れた祖父母だけあって、東京都民であることもあって、目の前に医科研があり、裏に聖心もある、立地条件に住んでいただけあるのだが、前夫が祖父の「兄ちゃん、茶菓頂戴。」が、口癖のゆうじおじさんの、息子で、戦士したよしおおじさんが、おばの本当の産みの父で、三淵嘉子が母であることを知ったうえでの、東京上京受験を阪神大震災の真っ只中考えていたわけなのだが、それよりも、出願大学を見て、偏差値的に一つにまとまってないのをみていた祖母が、優生学による保護法事件の解決者になってくれないかなぁ?と、ふと、漏らしたのがきっかけで、父の母校を受けることをやめたのだが、医学否定、でも、賠償金だけもらう、戦争中の法律否定、戦後の法律否定、生物学重要とか、なんのことやら、さっぱりわからんが、うちのヨークシャテリアのケティ、今23歳だよ、100歳以上なんだけれども、と、別に医学部医学科がすべてじゃないし、東京大学、聖心から行って、滑るだけさせてくれたら、というと、育ての親の母が、やめてくださいと、駄々をこねてきた。
祖母は後、願い事が叶ったと、高齢者後期に差し掛かった頃、曹洞宗、臨済宗、プロテスタント、神道から、カトリックに改宗したのだが、母は、それは喜んでいたとかいう話だ。憧れていたのよ、と言っていたとは叔母から聞いていたのだが。
大学はいったときには、嫌がらせはよしこさんの母が、被害妄想になり、「私の産んだ子ではない。」と、家中の流行語になったのだが、実際堺市に行ったときに、知ったのは、一乗寺の産院で、看護師が自分の子より良さそうな子と、自分の子を、わざと子どもケースから外して、名札を入れ替えとっかえして、当時のDNA検査を受けていた子どもたち以外は、親が、本当の親でないという事件に巻き込まれた一人であると、やった本人の看護師に告白同様聞いていたので、母が時々、生みの親でないと、感じることはあっているのか?と、思うこともあり、それなりに、嫌な気分を味わったりすることもあったのだが、大阪のおばちゃんの教育論はどこかの地方の教育論と違って、養子は、生みの親を凌駕すると教えてくれるほど、行き届いた心遣いがあったところへ、楽しんで過ごしてこれたので、それはそれで良かったと思うこともあった。
そう言えば、初期のノーべル賞受賞者は、皆養子であったとかいう大阪のおばちゃんの噂話で、気がついた人から一人一人受賞していったのは、まるで、わざと候補者に間違い電話をかけて、一番早く電話に出た人から賞受賞という豆腐の早食いと同じ理論ということも、お隣の家から聞いていたので、焦ることはなかった。
叔母の背中を見て育ったので、叔母が漫画が好きだといえば、同人誌を開いたり、薬剤師の試験の本番の話を聞いたら、外国の薬学部の試験の申請をしたり、と、同じペン屋の社員、年上の家族がやることは全て刷り込みで真似をして自分のものにしようとしてきたが、まさか、学生時代同人誌で書いていた漫画の一部である「アジア行かされまくり」の、第一巻に出てくる脇役スターアコー(赤穂さん)のモデルの小泉進次郎氏が、総裁選挙に出馬するとは思わなかった。そういえば、名ゼリフが父親の、「おまえときこみすぎだ。」だったんで、漫画のツッコミ第一声が「お前、ときこみすぎだ、アコー。」だったような気がする。
最近の小泉先生の、話といえば、京都の、高山寺の、石畳にある、バーのお店にいらしていたとかいう話を覚えていたが、仕事しているとき、偶然横断歩道を、歩いている先生を見かけて、お元気そうだと、思ったことはあった。段上町の近所にご家族と共に住んていらしたので。
今でも学校の卒業生から、包囲とか、日本語で言うところの感性を守れ、という、小泉先生の従兄弟先生が書いた出版書を持っているが、あれは名著だったなぁと。