物理のドッペルゲンガーについて
レポートを2000年に提出しなさいと、先生に言われて、ドッペンゲルガーについて、書き抜きをし、提出した。
知りたいことがあれば、そこだけ抜くと、知っている人からは、「説明がしたい!」との欲求が萌えるとか、世界史で習ったので、24歳の時、「どうしてタイムマシーンが出来ないのか。」「シュライデッガーの猫とは。」「明日を予言できるか。」とか、さまざまなことが思い浮かんだ。
結局書いたのは、アウンシュタインが、相対性理論を発見できたのは、彼が眼底出血を起こしていたので、目から上だけはっきり見える状態だったとか、医学に彼のことを結びつけた後、「彼が保険に入っていれば良かったのに。」という結論で終わった。今から思うと、「なにそれ。」と思われるだろうが。
ドッペンゲルガーは、まなこにコンタクトレンズを入れて、髪の毛をオキシドールで金髪にし、ガリガリに痩せて、テレビにでも出たら、別人だと思われても本人だと分かる人たちからは、本人だという方がわかるので、如何にして、ドルビーシアターを作り上げるか、そのことばかり考えていた。
故朝永振一郎先生は、この話に、4〜8歳ごろ、よく付き合ってくれて、「じゃぁ、別のところで双子がいたらどうなるの。」「足が早かったらどうなるかな。」と、一つの問いにいくつもの疑問を投げかけ、結局最後は、友禅染で紫になった染殿町の川を指して、「あれを綺麗にして。」と、宣われておられたので、物理の教室のレポートを提出しながら、別の時間帯で、大和川を綺麗にする方法がテーマの地学の教室にも手を出していた。
今から思うと、父はどんだけ娘を医師にしようと思っていても、乳臭い母から離れない私に匙を投げていたような気もしていたのだが、それがいいのだとかで…。
結局は先生を科学の父と思って過ごしていたら、母の従兄弟から、祖父が書いた本とかで、「かがくの匂」とかいう本を差し出された。
さて、この間の3/10のオスカー賞の発表の日、私はグラミー賞を忘れており、映画の祭典を録音するまでに時間を費やし、2日間も眠れないまま、「なんでこんな早い時にグラミーの発表をやるのか。」と、レポート提出の時と同じくらいの労苦を費やしながら、オスカーに挑んだ。
まず、クレカを用意した。10年も前から準備していたことである。2024年にどうしてもオスカーが見たいとの欲求がDNAの中から騒いだ。
ペンネームも「嵌る。」と用意していた。
ピコピコと、フリッカーを移動し、さて「みよう。」のところで躓いた。
チャットである。
チャット歴40年の私は、「キリアン・マーフィーを見たくって、有給を取りました。」との発言を見て、入るのを恐れた。
内部事情を知っているからである。
無視して、しばらく経って、SNSでもかこおっと、と思ったのだが、本命馬のオッペンハイマーが賞を取らない。
本撃である。
撃沈した。
1995年の主演男優賞の「ライフイスビューデイフル」の俳優を思い出した。
ライスさんだったか。あの人はバカで、椅子の手すりの上に上がり、獲得の瞬間喜びを隠し切れなかったようだ。
結局は全部門7部門獲得で終わったが、脳裏を掠めたのは、おんなじ時刻、おんなじ助演女優賞の発表の時、「こりゃあかんわ。」で、11部門獲得を諦めていた時である。
「感想を述べよう。」と、ふと思った。
文字を赤い紙に黒字で書いて、セリフ板を作り、コピーしようにもコピーできないネタは、明治生まれの祖父の頃からあった。祖父は詳しい人だった。波線を約3センチ幅で白黒交互に描き、コピーすると、模様が写らない。たまに、高度技術を使うと映るが、知らない人は白のままであり、コピペできないようになっている。そんな同じ技術で、友達が言っていたのをダラスで思い出した。日本の赤紙である。
嗚呼、怖、と思い、まぁ、フィールドオブドリームズのアカペラのモノローグで、受けに受けた私は、「笑ったよ。」と、ほぼ全部のSNSに。
すると、外国の友達が見ていたらしい。返事がドルビーシアターの司会者に即伝わったようで、私の寝起きが10時ごろだということが、バレたのか、フォローで「映画が始まる時間だね。」と言われてドキドキ。
授業をすっぽかして、英語の勉強と、友達のお父様に連れられて映画館に行ったら、10時開展だったという事を思い出して、恥ずかしさのあまり、携帯を持つ手が震えた。
おかしい、どこでバレたんだろうと、見るに見れない状態で、頭の中渦を巻きながら、画面を直視しようとしていたのだが、それができない。
オッペンハイマーの助演男優賞のダウニーJr.の受賞で我に帰った。
あそうや、7部門くらい取らなきゃ。と。
体の隣に、西川義方の看護の実際と、国家試験通った時の問題用紙(黄緑)、聖書の英語版と、内科診察の実際をおきながら、携帯で「どこも一緒やろ。」と、wikiで、俳優方を検索。監督で目に入った。「レオちゃうか。」と。「クリストファーノーラン客が入ってこなさそうな名前だな。」と、イエスキリストが、十字架につけられた時、観客がノーギャラで、再演がなかったということだけだという昔の聖書の下りを思い出した。
その後、爆撃のようにオッペンハイマー関係者が賞を取り出し、内容は、印象的だったというのが、「キリアンマーフィーに、話をさせてコメディをやらせるとシリアンだそうで。」ということくらいかなと。
あぁ、あいつもアホやったなと、昔の友達のことを思い出していたが、今から思うと、司会者のジミーキンベルは、「よく覚えているな。」というほどの記憶の良さで、ヘルシンキに2000年遊びに行った時の会話を全部暴露され、父と私の会話が単なる上方落語のボケとツッコミだったことを彷彿とさせる内容だったが、きちんとしたことを話すことは話したと、後の「君たちはどう生きるか。」を見て、今年はオスカーもろた、と、バンザイを心の中でしていた。
最終的にドッペンゲルガーが何であるか分かったか、と、問いかけられるような内容であったが、いっぺんに何百キロと離れたところに1人の人が2人を電子機器を使って見ることなど不可能であり、バレたくなければ、古代の人たちがアナログで使っていた方法が一番バレにくい(他参照)と、気がついたことが一つ。あとは、オッペンハイマーが、三島由紀夫に似ていたのだが、あれは同一人物か、ということが二つ。最後に本人は父親がノーベル賞受賞者じゃないか、という問いには答えがなく、ただ単に、自分が取るときは、皇族が一番いい大学に行って、自分を推薦してくれたら、49歳でも60歳でもなんぼでもくれたら嬉しい、占いでも、多面体のサイコロを振って、片方に良の点が抜けたのが出たし(トラらしい)と、大腕を振って、母と着物を売らないことと、激しく論議し、喧嘩に至って、冷めつつあった。